この記事の目次
- 第1回『猫に起こされた日々』
- 小さい頃は、どんなお子さんでしたか? ご家庭の様子も含めて教えていただけますか?
- 小学校に上がってからはいかがでしたか? 部活や、当時夢中になっていたことはありますか?
- 中学生の時に猫と出会われたそうですが、その時のことを覚えていらっしゃいますか?
- 部活には入らなかったと伺いましたが、中学・高校時代はどのように過ごされていましたか?
- 大学では日本拳法部に入られたそうですが、きっかけは何だったのでしょうか? 実際にやってみていかがでしたか?
- 夏合宿で重度の熱中症になられたと伺いましたが、その時のことをお聞かせいただけますか?
- 回復された後、今度はひどい目眩に襲われたそうですが、大学を辞めるまでの経緯はどのようなものだったのでしょうか?
- 働けない時期を、どのように過ごされていましたか? 猫たちの存在は大きかったのでしょうか?
- 目眩は、どのようにして改善していったのですか?
- 身体のことから、哲学やアートにも関心が広がっていったのはなぜでしょうか?
名古屋・呼続の下町で、猫の名前を冠した整体サロン KoShuKa(コシュカ)を営む山中 健太(やまなか けんた)先生。

山中 健太【整体サロン KoShuKa】愛知
Solechika.PRO/s/Kenta_Yamanaka/
「当たり前の日常を当たり前のままに」と掲げる先生の来歴は、起き上がれなくなった日々から始まる。第1回は、遠慮がちな一人っ子だった幼少期から、猫との出会い、そして自分と世界との関係が崩れたところまでを辿る。
第1回
『猫に起こされた日々』

小さい頃は、どんなお子さんでしたか? ご家庭の様子も含めて教えていただけますか?
引っ込み思案で、遠慮がちな子供だったと思います。一人っ子で、両親との三人家族。特別何かに不自由することもなく、普通に育ってきました。生まれたのは愛知県の瀬戸市ですが、ほぼ記憶がないくらいの一歳の頃に豊明に越してきて、そこで育ちました。
父はスーパーの鮮魚売り場で働いていて、魚を捌くプロでした。幼い頃からよく釣りに連れて行ってもらって、生き餌のゴカイが気持ち悪くて、最初は針につけるのに苦戦した覚えがあります。釣れても釣れなくても楽しかったけれど、釣れた魚を夕飯に食べられるのは嬉しかったし、一匹の魚が刺身になるまでの様子は何度見ても飽きなかった。母は途中からパートに出て、別のスーパーの中のパン屋さんで働いていました。
両親から何かを言われることは少なかったんです。子供の頃、爪を噛む癖があって、それだけは怒られました。あとは一度だけ、家の中でライターで火遊びをして畳を焦がしてしまって。その時は母親にものすごく怒られましたね(笑)

小学校に上がってからはいかがでしたか? 部活や、当時夢中になっていたことはありますか?
小学校ではサッカー部に入っていました。ちょうど J リーグが始まった頃で、僕らが三、四年生あたり。小学校だったので部活の種類も少なくて、サッカーかバスケかくらいだったと思うんですけど、どっちかなと思ったらサッカーだなと。
サッカー部は結構楽しくやっていました。仲間内で J リーグの試合を見に行ったこともあります。瑞穂競技場で、グランパス対マリノスだったと思います。僕はマリノスのファンで、井原正巳選手が好きでした。近くに座っていた年上のお兄さんたちに、なんだか可愛がってもらった記憶があります。
サッカー以外だと、釣り好きの友達と出かけたり、ちょっと遠い釣具屋さんに行ったりしていました。
父の影響で競馬も覚えました。小学二年の頃に中京競馬場へ連れて行ってもらって、生で走っている馬の迫力がすごかった。それから自分で予想するようになって、父のついでに百円、二百円と買ってもらう。基本的には年末の有馬記念を年に一回買う、というのがほぼほぼで、中学、高校になるともう少しやるのが増えていきました。
友達からどう見られていたかというと、割とおとなしい方だったと思います。輪の中にはいましたけど、積極的にその中心にいるタイプではなくて “みんながいるところについていく” くらいの感覚が多かったですね。
十歳の頃が、一番いろいろあった時期かもしれません。小学四年の夏休み、熊本の祖母の家へ行く前に、理由の分からない落ち込みに襲われたことがあって。いじめられていたわけでも、家庭に何かがあったわけでもない。何だったのかは今でもよく分からないままです。ただ、その夏によく流れていた流行りの曲が聴こえてきたり、出発前に食べたレトルトカレーの箱を見かけたりすると、今でも嫌な気持ちになります。腑に落ちる答えは未だに出ていないので、謎のままにしています(笑)
中学生の時に猫と出会われたそうですが、その時のことを覚えていらっしゃいますか?
中学二年の頃だったと思います。一人で家にいると、急に母が猫を拾って帰ってきました。母が働いていたスーパーの入り口にいた茶トラの猫。子猫といっても両手に乗るようなサイズではなく、生後三ヶ月くらいだったのかな、割りと育ったサイズ感の猫でした。
この頃は特別猫が好きでもなかったし、触ったこともなかった。そもそもうちの母が猫に興味のある人だなんて知らなかったんです。母は、猫を飼うのに必要なトイレなどを用意してくると言ってまた出て行き、いきなり知らない猫と二人っきりにされてしまった。
その子は人懐こい性格で、全く警戒することなく、あぐらをかいていた僕の脚の上に乗ってきました。初めて猫に乗られた感覚はくすぐったいしかなくて。
「ちょちょ、ちょっと待ってね」
どかすために持ち上げようとしたけれど、力加減も分からず、壊れてしまいそうな感じがしたので、そーっと押し出すようにして一旦下りてもらいました。座布団を持ってきて座り直し、脚の上に座布団を乗せ、猫にはその上に乗ってもらう。これなら大丈夫。すると、すぐにくるっと丸くなって落ち着いてしまったので、僕はしばらく身動きができなくなってしまいました。
それが、その後20年以上一緒に暮らすことになる「チャビ」との出会いでした。
そこからもう、どんどんハマっていきましたね。

一年後くらいに、今度はキジ白のザ・子猫を母がまた拾ってきました。めっちゃ拾ってくるじゃん、と思ったけれど、これがまたかわいくて。「ガク」は、かなりのビビりで、家族にはすぐ慣れてくれたものの、家族以外の人が家に来るといつもすぐどこかに隠れてしまう子でした。
チャビは動物病院の先生に「この子は外にいたら多分ボスになる感じの子だよね」と言われるくらい、ちょっとやんちゃなところがあったので、新しい子が来てどうかなと思っていたら、すごく面倒見のいいお兄ちゃんになってくれた。二匹の相性が良かったのは本当に助かりました。
ガクは食い意地が張っていて、隣同士でご飯を食べさせるとチャビの分まで、どころか、チャビの分を食べてから自分の分を食べるという強欲っぷりで。外で飢えていたから最初は仕方ないかと思っていたけれど、結局最後までこの食い意地は変わらずでした。
父は動物が好きな人で、本人は犬の方が飼いたいと昔言っていたと思うんですけど、猫を飼い出したらやっぱり可愛くなるので、家族みんなでかなり可愛がっていましたね。


部活には入らなかったと伺いましたが、中学・高校時代はどのように過ごされていましたか?
中学では最初サッカー部に入ったんですが、すぐに足を怪我してしまって。もともと捻挫をしやすい子供で、足首があまり強くなかったらしいんです。小学校のボールは子供用なんですけど、中学生になると大人用のボールに変わる。それを思いっきり蹴ったら足首が耐えられなかったみたいで。頑張って鍛えれば続けられたのかもしれませんが、そこまでの熱量はなかったので辞めて、そこからは帰宅部です。
小学校までは人の輪にいるのがそんなに苦でもなかったんですけど、中学生くらいからちょっと、めんどくさいというか、煩わしさを感じ始めていたので、新しいところに飛び込むのは億劫だなという感覚がありました。
交友関係は広くなかったですが、一人仲のいい子がいて、その子も帰宅部だったので、家に遊びに行って二人でゲームをしていました。プレステが出てきた頃で、二人とも RPG が好きだったので、なぜか集まって順番にやる。ファイナルファンタジーⅦの中のミニゲームは、結構協力してやり込んでいましたね。
勉強は、中学の頃まではそんなに頑張らなくても割といいところにはいられたので、ぼちぼちな感じで。国語や歴史のような文系の方が得意でした。
高校は、家から近いという理由で選びました。自転車で十分かからない。中学三年の時の担任の先生が、すごくよく見てくれていたなという印象があって。小、中、高と担任の先生の記憶があまりない中で、その人のことだけはなんとなく覚えています。
高校でも何かの部活に入りなさいという決まりがあって、選んだのはバドミントンでした。あまり熱心じゃなさそうな部活を見学に行った時に見つけて、これなら大丈夫そうだなと思ったのかなと。入ってすぐ幽霊部員になりました。先輩は割といい人だったので、ちょっと申し訳なかったなという感覚はあります。
家が近いがゆえに、ギリギリの時間に家を出て、数分だけ遅刻することが多かったんです。親からも教師からも、そんなに近いんだからもう五分早く出てくればいいだろうと何度も言われたんですけど、なんかそれができなくて。遅刻すると校門のところでしばらく待たされるんですが、そこには大体いつも同じメンバーが集まっていて。あの朝の時間は結構楽しかったんですよね。何でもない時間だったんですけど。
高校時代もほぼ帰宅部だったので、友達とどこかへ行くこともありましたけど、家で猫と遊んでいることが多かったなと思います。

大学では日本拳法部に入られたそうですが、きっかけは何だったのでしょうか? 実際にやってみていかがでしたか?
大学に行く時も、何かしたいからここに行くんだという感覚はまだ全然なくて。現状でちょっと頑張れば行けそうなところをいくつか見繕って受験するくらいの感覚でした。中京大学の文学部に入りました。
猫を飼い始めた頃からちょうど格闘技ブームの全盛で、 K-1 や PRIDE が大人気で、僕もよくテレビで観ていました。アンディ・フグやピーター・アーツが当時の花形選手で、その後、総合格闘技が始まってからは、五味隆典選手が好きでした。日本の軽量級でトップの選手で、外国人相手にもガンガン戦う。結構小柄な選手でそれだけやれるんだなと。僕も体が大きくないので、大柄な選手同士の戦いも面白いけれど、小柄な選手が工夫して戦っているのを、そっち側の目線で応援していました。
部活の勧誘で、日本拳法という格闘技の部活がブースを出していて、そこに当時流行っていて僕も好きだった漫画のバキが山積みにされていたんです。バキに引っかかるやつは多分うちの部活に興味があるだろう、ということだったと思うんですけど、まんまと足を止めて、そこにいた先輩とバキの話をしながら、そのまま入部しました。
日本拳法は、剣道に近い面と胴の防具をつけて、グローブをつけてやる格闘技です。本当に見るばっかりだったので、初めてやってみたらかなり面白くて、結構のめり込んでやっていました。防具をつけていても痛いのは痛いし、顔にも痣や傷ができる。実家から通っていたので、両親はちょっと心配そうにはしていましたけど、今までこういうことがやりたいというものを持って積極的に何かをやってきた子供ではなかったので、傷だらけで帰ってくるけれど、表情はすごく生き生きしていたみたいで。そこは喜んでいる風でしたね。
強くなりたい、もっと上手くなりたいという感覚はすごくありました。中高と部活をやっていなかったので体力が全然なくて、最初は相当厳しかったんですけど、それ以上に楽しさとやりがいがあった。部活で一番上の四年生の主将が僕と同じくらいの体格で、めちゃくちゃ強かったので、その人みたいになりたいなという気持ちもありました。
夏合宿で重度の熱中症になられたと伺いましたが、その時のことをお聞かせいただけますか?
春から始めて、夏の終わり。静岡での合宿で、僕は重度の熱中症になり、意識を失って救急車で病院に運ばれました。まだ数ヶ月だったので、もともとの体力のなさも手伝って、多分体がついていけなかったんだと思います。
何度も何度も呼び掛けられ、身体中をパチパチと叩かれながら目を覚ましたら、病院の処置室でした。名前を訊ねられたりしているうちにだんだんと意識がはっきりしてきたら、途端に寒くなってきた。身体にこもった熱を下げるために、身体中を冷やされていたからでした。
気を失っていた時間が長かったみたいで、病院側も ICU を一部屋空けて準備していたそうです。もうちょっと目が覚めなかったらそっちに入れていたところだよ、と最初に言われました。両親も呼び出されて愛知県から駆けつけてくれていたんですが、本人たちは「とにかくすぐ来てください、って言われたけど遠いしすぐは無理じゃん」というテンションで。まあそりゃそうだ(笑)
血液検査で、横紋筋融解症と診断されました。運動すると筋肉の組織が壊れて酵素が流れ出ていくんですが、それが大量に流れて、最終的に処理する腎臓の毛細血管が詰まってしまう病気です。通常の百倍だったか、そのくらいの数値で、病院の先生からも相当危ない数値だよと言われました。人工透析になるかもしれないという話もあったんですけど、当時19歳で若かったのもあって、とにかく水分をしっかり取って流していく。食事でもいっぱい水分を取らなきゃいけないというので、毎食山盛りのご飯を食べさせられていました。
十日ほどで退院できました。若かったから割りとすんなり回復できたけれど、一歩間違えると人工透析が必要だったと伝えられて、結構やばかったんだなと改めて思いました。
両親に、近くで美味しいハンバーグの店を見つけたから行かない? と言われて、退院直後に食べたハンバーグがめっちゃ美味しかった。そう、静岡といえばの「さわやか」です。その時はそんなに有名なお店だとは知らなかったけれど(笑)
回復された後、今度はひどい目眩に襲われたそうですが、大学を辞めるまでの経緯はどのようなものだったのでしょうか?
退院して名古屋に戻ってきて、しばらくした後に、急にひどい目眩に襲われるようになりました。一番ひどい時は本当に起き上がれない、立ち上がれないという状態で、吐き気もひどくて長時間トイレに籠ることも多かった。グルグルがひどくて外出なんて考えられなかったし、メンタルもどんどんやられていきました。
いろいろと病院を回ったんですが、原因が分からない。知り合いの紹介で、名古屋では有名だという耳鼻科の先生のいる大きな病院にも行きましたが、頭にも耳にも異常はなく、当時よく言われていたメニエール病でもなさそうだと。そうなると精神的な部分は絡んでくるよねということで、病院内のカウンセラーのカウンセリングを受けたり、ロールシャッハ・テストのようなものも受けたりしたんですが、それもよく分からないと言われて。
とある病院に頭の MRI を撮りに行った時、そこの先生に、目眩はストレスから来ることが多いけど仕事は何しているの? と訊かれて、今は仕事をしていないですと答えると「じゃあストレスはないねー」と小馬鹿にするような調子で言われたのは忘れません。いや、まともに働けないのもストレスなんだけどなと(笑)
大学には行けず、休学もできたんですけど、そもそも大学に対するモチベーションもそんなに高くなかった。部活を始めてからは、それをしに学校に行っているくらいの感じだったので、部活はもう無理だなとなった時に、中退することを選びました。19歳、一年で辞めています。
起き上がりたくても起き上がれないという感覚は、ちょっと大げさなんですけど、自分と世界との関係が崩れるみたいな感覚だったんですよね。
働けない時期を、どのように過ごされていましたか? 猫たちの存在は大きかったのでしょうか?
働くことも難しく、家にいる中で、猫たちの存在にはずいぶん救われました。一人で籠っていたらと思うと、もっと病んでいたかもしれない。
猫は話し相手になってくれるわけじゃないですけど、普通に隣でいつも寝ていたので、寝顔を見ているだけでも癒されました。それに、起き上がるのが難しくても、ご飯を催促してくるので、お構いなしに。それでちょっと無理やりにでも起きる、ということをしていました。ある種の非情さというか、こっちのことをお構いなしに、いつも普段通りのことを要求してくるので、できるだけ答えなきゃと。
そういうのがなかったら、本当に起き上がる動機が弱かったと思うので、多分いい方向に働いたんだろうなと思います。


目眩は、どのようにして改善していったのですか?
病院では原因も分からず、あまり向き合ってもらえている感覚もなかったので、これ以上巡ってもどうにもならないだろうと、ここから自分で何とかしようと思いました。色々と調べていると、横浜に目眩の専門の先生がいて、僕みたいな状態の人たちを集めて、泊まり込みでトレーニング合宿のようなことをやって症状を改善させているというのを知りました。
目眩は寝ていると余計悪化していくから、ちょっと無理してでも動いた方がいい、と。そこまで行くのは難しかったけれど、その先生が自宅でできるトレーニング法を本にしていたので、まずそれを買って、少しずつやり始めました。
実際に目眩を起こさせるような運動でもあるので、結構大変ではあったんですけど。その中で、身体のバランスは小脳が司るんだとか、足裏のセンサーの話だとか、身体の感覚というものの話が出てきて、それを自分なりに調べながら。目眩は少しずつ改善されていくことになります。
自分の身体のことを探るようになったのは、これがきっかけでした。格闘技の部活をやっている時でも、トレーニング法をどうこうとか考えたことはなかったので。格闘技は好きだったので、その流れで古武術の本を読んだり、身体の使い方に興味を持ってやりだしたりもしました。
身体のことから、哲学やアートにも関心が広がっていったのはなぜでしょうか?
物理的な身体のことと同時に、自分の身体と空間の関係性みたいな考え方の方にも思考が及んでいって、違う分野の本も読み出しました。哲学だと、モーリス・メルロー=ポンティの『知覚の現象学』。難しい本で全然理解できないことはいっぱいあったんですけど、自分の体と空間の関わりを考えるのは面白いなと思って。
そこから建築やアートに目を向けるようになって、荒川修作に強く興味を持ちました。身体のバランスをあえて崩すことで、普段と違う感覚を手に入れる。すごく難しいことをやっている人なので理解しているわけではないんですが、その時の自分が考えていることと照らし合わせながら、すごく面白かった。ある程度動けるようになってからは、岡山の奈義町現代美術館や、岐阜の養老天命反転地にも行きました。

動ける日も出てはきたんですけど、外に出て働いていくというのはまだ難しそうな感覚がずっとあって、家の中でできる仕事を考えていた時期があります。文章を書く仕事がいいなと思って、小説にも興味が出てきた。子供の頃から本を読んだり、絵本を見ながら自分で物語を考えていたのが関係するのか分からないですけど。
自分なりに書いてみても全然手応えがなくて、小説の書き方の本を読んでみようと本屋の棚に行ったら、技術論的なものばかりでいまいちピンとこない中で、保坂和志さんの『書きあぐねている人のための小説入門』という本があった。「書きあぐねている人」という言葉の選び方に、ものすごく惹かれたんです。そういう言葉をチョイスできる人の考え方は信頼できる、という感覚になって。
読んだらめちゃくちゃ面白かった。でも結局それで小説を書き続けたかというとそうではなくて、その人の考え方の方に興味が移って、そこから保坂さんの本を読み漁る日が続きました。20歳、21歳、22歳くらいの頃です。そこから少しずつ、状態も回復していきました。
山中 健太【整体サロン KoShuKa】愛知
Solechika.PRO/s/Kenta_Yamanaka/
第1回を終えて
体調が悪い日も、ご飯を催促してくる猫たち。山中先生のお話で印象に残ったのは、そのお構いなしの存在が、毎日をつなぐきっかけになっていたことでした。
起き上がりたくても起き上がれず、自分と世界との関係が崩れたように感じた日々。その傍らに、いつも通りに眠り、ご飯を求める二匹がいた。自分を必要としてくれる存在がいる。そのことの大きさを、改めて考えました。
そして、自分の身体の感覚を調べ、哲学やアートへも関心を広げていった山中先生。思うように動けない時間の中で、身体について考え続けていたことも心に残ります。この時に芽生えた関心が、のちに整体という仕事へ続いていくのだと思います。
次回は、猫たちとの暮らしを引き受け、整体の仕事を選び、コトー先生と出会うまで。そして、二匹を見送って独立を決めるまでのお話です。
編集ノグチ
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