この記事の目次
- 第1回『泣き虫という土台』
- 子どもの頃は、どんなお子さんでしたか?
- ご家庭は、どんな雰囲気でしたか?
- ホームページのプロフィールには「美術に囲まれて育った」とありますが、当時の家の風景で覚えていることはありますか?
- 小学生の頃は、習い事がとても多かったそうですね。
- 「従うことに安心を感じていた」と書かれていましたが、当時の自分をどう見ていましたか?
- 泣き虫だった自分が変わったきっかけはありましたか?
- 子どもの頃、夢中になっていたものは?
- 中学校に入ってからは、どんな学生でしたか?
- パンクやロックに惹かれたきっかけは?
- ブルース・リーの言葉に強く惹かれたそうですね。
- テニスを始めたきっかけと、続ける中で印象に残っていることを教えてください。
- 当時、将来の夢はありましたか?
- 高校から大学へは、どう進路を決めたのですか?
- 大学時代は、どんな生活を送っていましたか?
- 人の体に興味を持つようになった最初のきっかけは?
神奈川県横浜市・綱島で整体サロン『リーン』- Rə:eN – を営む、レン・ヤジマ先生。

レン・ヤジマ【整体サロン リーン】神奈川
Solechika.PRO/s/Ren_Yajima/
全3回でお届けするインタビューの第1回は、東京・立川で過ごした幼少期から、テニスに打ち込んだ大学時代までを伺いました。泣き虫だった少年が、なぜ「強さ」に憧れ、なぜ「体」に興味を持つようになったのか。整体師としての原点を、時系列で辿っていきます。
第1回
『泣き虫という土台』

子どもの頃は、どんなお子さんでしたか?
子どもの頃は、本当に泣き虫でしたね。些細なことですぐ泣いてしまう子どもでした。ちょっと転んで痛いだけでも泣いていましたし、注射なんかも大嫌いで、打たれるたびに泣いていた記憶があります。自分の痛みだけじゃなくて、大切にしていたものがなくなってしまったとか、壊れてしまったとか、そういうことにもすごく敏感でした。
今でも印象に残っているのは、幼稚園の頃だったと思うんですけど、親と車で出かけたときのことです。お気に入りの水筒を持っていて、お茶を飲み終わって母親に返したら、母がコップに残った水を切ろうと窓の外でピッピッと払ったんですね。そのとき手を滑らせて、コップが道路に転がっていってしまって。それだけのことなんですけど「今まで持っていたものがなくなってしまった」というのがすごく悲しくて、えんえん泣いてしまいました。
小学校に入ってからもよく泣いていました。図工の時間に作った作品を友達に壊されて泣いたり、からかわれて泣いたり。いじめられていたわけではないんです。ただ、泣くたびに「お前、また泣いてるのかよ!」と言われる泣き虫キャラとしていじられていて、周りに悪気はなかったと思うんですけど、子ども心にはちょっと傷ついていましたね。
ご家庭は、どんな雰囲気でしたか?
けっこう厳しい家庭だったと思います。世間一般で言う礼儀正しさをしっかり叩き込まれました。挨拶をしないと怒られましたし、僕は朝が弱くていつまでも布団でごろごろしているタイプだったので、それを見て怒られたり。ご飯は残さず食べなさい、集合時間には必ず間に合わせなさい、なんなら時間より前に集まりなさい、と。厳しい家だなというのは、子どもの頃から少し感じていました。
ただ、親子関係は悪くなかったと思います。母は美術系の学校を出ていて絵がすごく得意だったので、家で熱心に絵を教えてもらったり、勉強も見てもらったりしていました。
4歳下に弟がいます。小さい頃はすごく仲が良くて、幼稚園の頃に一緒に動物園へ行って、動物が変な動きをするのを見て二人で笑っていた記憶があります。長期休みには群馬の祖父母の家に行って、同じ年頃のいとこと弟と三人で遊んでいました。
正直に言うと、小学校の中学年くらいからは、弟をけっこう邪険に扱っていました。どこに行くにも後ろをくっついてきて、僕のやることを真似して、僕が集め始めた漫画を「読むな」と言っても勝手に読む。弟は僕を慕ってくれていたんですけど、当時の僕はそれが鬱陶しく感じてしまって。今思えば、申し訳ないことをしたなと思います。

ホームページのプロフィールには「美術に囲まれて育った」とありますが、当時の家の風景で覚えていることはありますか?
生まれたのは東京の立川です。両親ともに美術系の学校を出ていて、母は僕が生まれた後も七宝焼(しっぽうやき)を作っていました。七宝焼というのは、銅板の上にガラス質の材料を置いて、高温の窯で焼き付ける工芸です。母は七宝焼の協会に所属していて、協会主催の展覧会に作品を出していたので、家には小さな窯がありました。
一番覚えているのは、母の後ろ姿です。作業台はレンガの上に板を渡したもので、その上でピンセットを使ってガラスの材料を少しずつ乗せていく。窯に入れるときは防護用の眼鏡をかけて、窯が高温になると周りの空気が揺らめくんですよ。その光景はすごく印象に残っています。
七宝焼の材料が入っている棚と、道具が入っている棚があって、銅板やガラスの破片がカメラのフィルムケースに入れて並べてあって。母に教わって、僕も少しやったことがあるんです。母が大切にしている道具を棚から取って一緒に作った時間は、今でも覚えている風景ですね。

母の作品は、廊下や、お風呂を出てすぐのところや、リビングに飾ってありました。本棚にはゴッホやダ・ヴィンチの画集が何冊も並んでいました。
父は内装の仕事をしていて、美術を前面に出す人ではなかったんですけど、音楽がすごく好きでした。立派なコンポとレコードがあって、家でギターを弾いたり、休みの日には笛を吹いたりしていましたね。
出かけるといえば美術館が多かったです。当時は退屈でしかなかったですけど(笑)
母は植物も好きで、家のベランダにはたくさんの緑がありました。近くには昭和記念公園があって、自転車で行ける距離に多摩川や玉川上水もあって、ピクニックやサイクリングに行った記憶もあります。自然に触れることが好きになったのは、そういう環境の影響もあるのかなと思います。


小学生の頃は、習い事がとても多かったそうですね。
体操、プール、合気道、英語、塾、お絵かき教室。毎日のようにどこかに通っていました。自分でこれがやりたいというのは特になくて、親に言われた通りに動くのが当たり前になっていましたね。
小学校4年生から塾に通っていたんですけど、同じクラスに意地悪を言ってくる男の子がいて、けっこう泣かされていたんです。それがすごく嫌で、ある日、ほんの少しだけ言い返してみたんですよ。そうしたら彼がすごく驚いて、ちょっかいを出してくることが減った。そこからはお互いに言い合えるような関係になって、僕の中では仲良くなれたと思っています。『自分で何かを変えていかないと、変わらないんだな』と感じた出来事でした。
正直、習い事そのものの印象はあまり残っていないんです。英語は友達のお母さんが友達の家で開いてくれていた教室で、英語を勉強しに行くというより、レッスンが終わった後もその家に長くいて、遅くまで遊んでいた記憶の方が強い。寂しがり屋だったんだと思います。思い出すと、いつも誰かが一緒にいました。
そんな中で、合気道だけは今でもはっきり覚えています。神棚に向かって正座して礼をする。自分より大きな人と対峙して型を練習する。年長者を敬い、年下の子の面倒を見る。合気道は護身術ですけど、技術だけじゃなくて礼儀や義理をすごく大切にするんですよね。そういうものが、もともと好きだったんだと思います。
「従うことに安心を感じていた」と書かれていましたが、当時の自分をどう見ていましたか?
従うことへの安心感、落ち着く感じはすごく強くありました。
小学校のときに仲の良かった友達で、すごくリーダーシップのある子がいたんです。遊ぶにしても、場所を決めてくれて、時間を決めてくれて「一緒に遊びに行こうぜ」「誰々の家に行こうぜ」と引っ張ってくれる。僕はそこに安心していましたし、従うことで必要とされている感覚もあったのかなと思います。
ただ、心の奥底では「それだけでいいのかな」「自分が中心になって何かを考えていかないといけないんじゃないか」というのも、少し感じていたように思います。
泣き虫だった自分が変わったきっかけはありましたか?
小学校の低学年から中学年にかけてだったと思います。僕は泣くとき、座り込んでしまうんですよ。座り込んで、えんえん泣く。あるとき、仲の良い友達に「またお前、座って泣いてるの?」と言われて。悪気はなかったんですけど、それがきっかけで、このままじゃいけないなと思って、その日から泣くのを我慢するようになりました。
泣かなくなると、からかわれることもなくなりました。それまではクラスの端でおとなしくしている子だったんですけど、授業で積極的に手を挙げて発言するようになったり、班長をやったり。4年生か5年生のときの運動会では、応援団に自分から立候補して「応援団長をぜひ自分にやらせてください!」と手を挙げたのを覚えています。少しずつ自分に自信がついてきて、クラスの中心に近いところにいられるようになったと思います。
子どもの頃、夢中になっていたものは?
動物が大好きでした。学校では生き物係をやって、鶏やうさぎに餌をやるのが好きでしたし、家では猫を飼っていて、猫と触れ合う時間が好きでしたね。
中学年から高学年にかけては漫画です。親も少し漫画を集めていて、本棚に手塚治虫、大友克洋の『AKIRA』や、寺沢武一の『コブラ』が置いてあって、それに触発されて自分でも集めるようになりました。
それから、習い事の合間に見る映画がすごく楽しみでした。アーノルド・シュワルツェネッガーの作品がよくテレビで放送されていて、アクション映画の主人公みたいに格好良くなりたいと憧れていました。弱虫だったからこそ、強い存在に憧れたんだと思います。

中学校に入ってからは、どんな学生でしたか?
中学受験をして、志望していた私立の学校に入りました。それと同時に、激しい反抗期がやってきました。
親の言うことにことごとく逆らって、出かける先を言われても「そんなところ行きたくねえ!」と言ったり、親と一緒に食べるのが恥ずかしくて食事に一切口をつけなかったり。父親に反抗して蹴飛ばして「お前なんか父親じゃない!」と言ったこともあります。親はさらに怒って、僕はそれにまた反抗して、という日々でした。従うことが、すごく格好悪く感じていたんです。
ただ、逆らいはするものの、自分が本当にやりたいことは見つからなくて、悶々としていました。
パンクやロックに惹かれたきっかけは?
受験勉強で心身ともに疲れていた僕を救ってくれたのが音楽でした。
中学1年のときに仲良くなった、通学路が同じ友達がいたんです。ある日その子が「俺、バンド始めるよ」と言い出して「このCD聴いてみろよ!」と貸してくれたのが、ハイスタンダードとブラフマンのCDでした。
家に帰ってコンポで聴いたとき、鳥肌が止まらなかったんですよ。音楽でこんなに鳥肌が立つんだ、とまず思いました。特に、 Hi-STANDARD の『STAY GOLD』と、BRAHMAN の『BASIS』です。一回聴き終わっても、ずっと頭の中でリフレインして、何をしていても流れている。忘れようにも忘れられない、それくらいの衝撃でした。
彼に「すごく良かった!」と話したら、今度はライブ映像を見せてくれました。バンドのメンバーが魂を込めて歌っていて、観客はダイブしてもみくちゃになって、統率された感じじゃなく、自分の感情を爆発させてモッシュしている。「音楽ってこういうものなんだ」「自己表現の一つなんだ」と思って、そこからロックやパンクにのめり込んでいきました。
当時はCDを持っていなかったので、すぐレンタルショップで借りてきてMDにコピーして、通学のときにずっと同じ曲を聴いていました。外を歩いているときは音量を最大にして、頭を振りながら聴いていましたね。さすがに電車の中ではやらなかったですけど(笑)
激しく反抗的な姿勢を貫くバンドに惹かれたのは、反抗期も相まってのことだと思います。己を貫く美しさを、ここで知りました。今も変わらずパンクとロックを愛しています。

ブルース・リーの言葉に強く惹かれたそうですね。
中学の頃はアクション映画にすごくハマっていて、ジャッキー・チェンやスティーヴン・セガール、そしてブルース・リーが好きでした。最初に見たブルース・リーの作品が『燃えよドラゴン』です。悪事を働く組織にブルース・リーが潜入して親玉を倒すという、ストーリー自体はシンプルな映画なんですけど、その中でブルース・リーが弟子に教えを説く場面があって、そこに「Don’t think, feel.(考えるな、感じろ)」という言葉が出てきます。
正直、最初に見たときはそこまで心に留まらなかったんです。でも何か引っかかるものがあって、後になってじわじわと残っていきました。僕はこの言葉を、何も考えずに行動しろという意味ではなく、考え抜いた先に本当の答えがある、というふうに受け取っています。
もう一つ「水のようになれ」という言葉があります。肉体的にも精神的にも常に柔軟であることが、本当の強さにつながる。そう受け取って、柔軟な姿勢を大切にするようになりました。
一見細身に見えるのに、服の下には鋼のような肉体が隠されていて、背中の筋肉は正面からも見えるほど発達している。動と静が入り混じったフットワーク。武術を追求する中で、肉体も精神も高めていく生き様が、格好良く見えました。ブルース・リーと出会って、何かを追究する道に憧れを持つようになったんだと思います。
テニスを始めたきっかけと、続ける中で印象に残っていることを教えてください。
小学校の頃からずっと仲が良かった友達が同じ中学に進学して、その子に誘われるがままに始めたのがテニスです。さっきお話しした、遊びを引っ張ってくれていた友達ですね。
それまで運動は得意じゃなかったですし、むしろ嫌いでした。体育の時間もからかわれて嫌な思いをして、運動なんてしたくないと思っていたんです。でもテニスを始めてみたら面白さに気づけて、テニス部で新しくできた友達とも仲良くなって、休みの日には友達の家でゲームをして。誘われて始めただけだったのが、続けるうちにテニス自体が好きになっていきました。
結局、僕を誘ってくれた友達は途中でテニス部を辞めてしまったんですけど、それでも僕は続けたいと思って残りました。
続ける中で印象に残っているのは、テニスをしている瞬間の感覚です。試合中にボールを追っているとき、練習で素振りをしているとき、頭の中のごちゃごちゃしたものがどんどん軽くなっていく。当時は反抗期も相まって悶々としたことが頭を支配していましたし、少し哲学にかぶれて「なんで自分は生きているのか」「この先何をしていくべきなのか」なんてことを四六時中考えていたんですけど、テニスをしているときだけはそういうものから解き放たれる。
特に、サーブの構えで一度ボールを見るとき、相手のサーブを打ち返そうと集中して見ているとき、一球一球のボールを見つめているときは、すごく静かな気持ちになれました。中学3年のときにそのことに気づけて、高校でもテニスを続けようと思ったのを覚えています。
当時、将来の夢はありましたか?
この仕事がしたい、というのはあまり考えていませんでした。親から「あなたは公務員になりなさい」とよく言われていたので、公務員になるのかな、と思っていました。反抗したい気持ちと従いたい気持ちがどちらも残っていて、漠然とした将来に対しては、従っていた方が安心できたんだと思います。

高校から大学へは、どう進路を決めたのですか?
通っていたのは高校から大学へ付属で上がれる学校だったので、受験はありませんでした。それよりも、付属の大学のテニス部にすごく尊敬する先輩がいて、その人のもとでテニスをやっていきたいという気持ちが強かった。それで、そのまま進むことに決めました。
大学時代は、どんな生活を送っていましたか?
ひたすらテニスに明け暮れる毎日でした。当時は『スマッシュ』というテニス雑誌を読み漁って、本屋に行けばテニスコーナーで片っ端から目を通して、ジムにも通って体を鍛えて。本当に毎日がテニス一色でしたね。
強くなるためにはどうしたらいいかを考え抜いて、できる限りのことをしました。肉体的には、いろいろなトレーニング理論を学んで実践したり、栄養学を学んで食事に気をつけたり。精神的には、メンタルトレーニングやマインドセットの方法を学んだり、ときには哲学書を読んでみたり。中学から数えて約9年間、テニスを続けることができました。
人の体に興味を持つようになった最初のきっかけは?
大学のテニス部です。僕はけっこう体を痛めがちで、練習に参加できないことが多かったんですよ。それで、部員のために何かできないかと思って、同級生や先輩、後輩のトレーニングを補助したり、食事のことを軽く伝えたり、マッサージをしたりするようになりました。
それまでは自分のためだけの努力だったんですけど、マッサージをしたら、すごく喜んでもらえたんです。人のために何かをして、こんなにも感謝されるんだ、と。面白いというよりは、誰かの助けになる感覚に充実感があった。積み重ねてきたものが誰かの役に立って、感謝されて嬉しかった。その気持ちが、整体師としての僕の原点にあります。

レン・ヤジマ【整体サロン リーン】神奈川
Solechika.PRO/s/Ren_Yajima/
第1回を終えて
「泣き虫だった」と、ヤジマ先生は何度も口にしました。
けれど今回のお話を振り返ってみると、その繊細さは、決してなくなってしまったわけではないように感じます。
泣かない自分になろうとしたこと。
強い人間に憧れたこと。
音楽に心を揺さぶられ、ブルース・リーの生き方に惹かれ、テニスに没頭したこと。
そして、自分のために学んできた身体の知識を、初めて誰かのために使ったこと。
当時は、それぞれ別々の出来事だったはず。
ただ、時間を経て振り返ると、それらは少しずつ一本の線になっていきます。
弱さを知っていたから、強さを求めた。
強さを求めたから、身体を知ろうとした。
そして身体を知ったことで、その知識が誰かのために使えることを知った。
「強くなりたい」と願った少年の歩みは、いつしか「誰かの役に立ちたい」という方向へ変わり始めていました。
整体師 “レン・ヤジマ” が生まれる、その少し手前まで。
第1回は、そんな「土台」の話だったのだと思います。
第2回は、大学卒業後の就職、整体師として過ごした最初の2年間、一度は整体を離れて会社員となった6年間、そして再び整体の世界へ戻るまでを伺います。
編集ノグチ
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